真の道を歩けば難儀があれば有るほど、しみじみと有り難くなる
昭和43年6月26日 朝の御理解
X御理解第64節 此の方は参って尋ねる所がなかった。氏子はお蔭を受けて遠路の所を参ってくるが、信心して説くを受けて身しのぎをするようになれ。
此の方は参って尋ねる所がなかった。皆さんは言うならこのお湿りの中に、お湿りの中にお参りをして来られるが、という事にもなるでしょうね。遠路の所を参ってくるが、近い人も参って来るんですけれども、せっかく参って来るからというのでございましょう。このお湿りをおかして参って来る。
だから参って来るということと信心してという事は、自ずと違う訳ですね。参ってお蔭を頂くという事と信心して徳を受ける事とは違う。此の方は参って尋ねる所がなっかた。氏子はお蔭を受けて遠路の所を参って来るが、ね、此の方は参って尋ねる所がなかった
が皆はねそうゆう信心の道をどうさせて頂くことが信心かということを、教えて頂いて、ということですね。ここは。
遠路の所を参って来るがというのは、例えばこのお湿りの中に、今日のようなお湿りの中にまあいはば、しるしさをおかして参って来るが、参って苦しいだけじゃいかん。なる程参ってお蔭を受けるということは出来る、けれども参って来ただけではね徳を受けて身しのぎをするようにはなって来ない。ですから折角参って来るのですから、参って来たらどうでも分からん所を尋ねる、又は御理解を頂いて御教を頂いて信心していかなければいかない。御教を頂いて信心して行かなければいかない。そこに徳が受けられることになる。
だから何十年信心しよりますと言うてもただお参りをしよるというだけで、信心しとらん人がある。ね、どうでも徳を受けて身しのぎをするように成るために信心しなければいけません。初めから師匠はおりませんから、やはり一歩一歩本当な事を分かっていくのでございますから、分かっていく楽しみ、分かっていく喜び、それがお蔭のもとになる。それが徳を積んでいっておる姿です。ただお参りをしてお蔭を受けているというのは50年続けて参っておったてですね、ただ参ってお蔭を受けよると言っただけの事、いうならお取次のお蔭で、いうなら金光大神のお徳によってお取次して下さる先生のお徳によってただお蔭を頂いているというだけでは、これはつまらん話です。
お参りをしてお話を頂いて信心していかなければいけません、だから信心するというところに、その今までと違った生き方を教えられる訳ですね。実意になれ正直になれ、というようにですね、そこんところを私共の日常生活にぴったり頂きよいような生き方を教えて頂く。信心して徳を受けて身しのぎをするようになれと、ここんところをですね御神訓の信心の心得ですね信心の心得の最後の所にですね、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。ここん所が参るだけでは分からん、参っておるだけではね、もう私は10年参りよりますというてもね、参っておるだけでは神の教えももし聞かないとするならば、それはただ参っておるだけ、信心しておるのじゃない。神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。次にはその真の道も知らん、どういう生き方をする事が本当の生き方、真の道というのはもう絶対人間幸せになっていく道という事なんです。
しかもそれは、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるというような、言わば無形の財産を築くことです。ですからそういう無形の物をです、積みためていくという事を知らない人の実にやはり、教祖ならずとも実にやはり哀れなことと思うです、私でもやはり。あの人がそうなドンドン儲けちから家を建てたり蔵を建てたりしよござるが、本とに真の道も知らずに貯めござるとの哀れさ、横から見とってヒヤヒヤスルごと危ないことじゃなあ、破れ橋を渡りござる様に見えるんです、いつあれがドカーンとやられてしまうやら分からん。本当の信心者から見るとほんとに危ないことであります。
お金があるから地位があるから名誉をもっておるからとね、権力があるからというても真の道を知らぬ人は実に哀れなことなんです。これだけの田地田畑をもっている、こんだけの立派な家を持っている、焼けたところで火災保険にかかっている、まあどこからいうても心配はいらんことでけとるけれどもです。それがもう根こそぎね、根こそぎおしまいになってしまうような道を平気で歩いているのを見たら、成程哀れなことだと感じますね。 そこで皆さんがねそういう哀れな人が世の中には沢山あるのですから、神の教えを聞かせ又は真の道を歩かせて安心した生活、喜びの生活、あの世までも幸せを約束してくださる生活、神様、この世の事はもう心配はいらんぞと子にも孫にも伝わるぞと、約束してくださる神様。そういう神の教えを、真の道を知らしてもらう分からしてもろうて行くからこの反対になるわけですね、知らぬ人の哀れさというのじゃなくて言わばそれを知って歩いていきよる者の幸せを感ずる。
これはまあ何時も実感をいたすのですけれども、今朝も御祈念中にねえ、ほんとにこの暑いこともない寒いこともない御神前にぬかずかせて頂いて御祈念をさせて頂いている幸せをしみじみ感ずる。それがなら暑くもない寒くもないという、なら体のほうはどうかというと私、昨日から風邪をひてから非常に気分が悪いんです。昨日その風邪をひいて気分が悪いがことは、もうしみじみ有り難さを感ずる幸せの前にはねもう何もないのと同じなんです、いやむしろそこに何かちょっとですね例えば難儀な問題を抱えておる時ほどですね、しみじみ幸せを感じれれるです。もう暑いこともなからなければ寒い事もない、なにもいわゆる平穏無事という時にはかえってしみじみ信心を頂いておる幸せを感ずることが難しいほんとうは、何かそこにちょっと心配ごとがある、ちょっと心にかかることがある、ちょっと体が痛いの痒いのがアるけれどもですね、信心を頂いているという安心。信心を頂いておる、神様の御守護を受けておる、ね、お生かしのお蔭を頂いてというその事がですね、もういよいよ信心を頂いている者の幸せを感じるです。
ですからここん所がね、知らぬ人の哀れさの反対にその道を知って歩く、それはたどたどしいものではありますけれども、真の道をあるかしていただこうと本気で意欲している。いよいよ信心の神の教えを聞かして頂くことの楽しい、新しい言わば新しい知識とでも申しましょうかね、新しい知識が出来て行くということを楽しみに、真の道を歩かせて頂いているものの幸せ。歩いているから、もう痛いのも痒いのもないという訳ではないのですね、真の道を歩いていきよってもやはり降ることもあれば照ることもあるんですよ。昨日私、もう一年以上も風邪をひいたことがなかった。糖尿病になって此の方説くに体を大事にするんですね、もう糖尿病になると外の病気が大変なおりにくいというので特に大事にする。だから去年あの非常に風邪がはやりました時に、私自身は皆さんご承知のようにすぐ風邪ひきよった、それがこの大事にさせて頂くにようになってからね、本とに【 】あわせたようにひかんごとなった。所がやっぱちょっと不注意ですね、風邪ひいてしまった。そして気分がいつものようによくはないけれどもです、けれども有り難い。それは信心の真の道をたどたどしゅうでも歩いているという、それがどうもしみじみ幸せを感じさせてくださるようですね。
例えば皆さんが難儀を持っておっても、難儀を持ておれば持っておる程ですね、真の道を歩いておればです、こういう普通で言えばこういう難儀を抱えているのだけれども信心させていただいているお蔭で、真の道を歩かせて頂いているおかげでね、これがさ程にも心配にならん、それがさ程にも難儀を難儀と感じんですむことが幸せ。これが信心者の特権でもありゃいよいよ有り難いというのは其のことだと思う。だからそれが頂けないならばね、それが頂けていないとするならね、あなたは神のおしえも聞きよらん、真の道も歩きよらんのです。もう心配で心配で眠られんというごたるなら、教えを聞き真の道を歩いているならどういう突発的な問題が起こって来てもです、眠れん程心配になるような事があるはずがない。そういうことが起これば起こるほど信心頂いている者の有り難さをじっかんんするものです。こういう難儀な中にあってこうしておれるということは信心さして頂いている者んの幸せをしみじみ感ずる、それが有り難いですね。
五十年例えば信心を続けておりましてもただお参りをしておるだけではいけんということが分かります。又お願いをしてお蔭をうけておるから間違いがないという事はないです。間違いだらけであっても、信心してお蔭を受けるのは人の良いのと悪いのは別物と仰言るのですから、例え間違いだらけ言わば悪人であっても、お参りをしてお取次を受けてお蔭をうけるということは別事なんですよ、ね、、だから今日の所はね、お互いが遠路の所を参って来る、参って来るだけじゃない、参って来て信心を頂いていきよる。いわゆる御神訓のここに現れてくるように神の教えを聞き真の道を教えてもろうて、日々たどたどしい事ではあるけれどもね、真の道を間違えなく歩かせて頂いておるということ、そのことが有り難い。そして真の道も知らぬ人、神の教えを聞かぬ人の哀れさを感じることが出来る。そこに神心がおっこてくる、お導きでもしなければおられない事になってくる。
私共もこういう難儀な中を、真の道を分からして頂くようになったらこのように段々助かって来た、このように幸せを感じるようになって来た。このように今までかって味あったことのない信心の喜びにひたらして頂きながら日々の生活が出来るということを、しみじみと幸せを感じますという、それをね身につけて行かなければならんということ。そうして行くことがです、身に徳を受けて行くことである。信心して真の道を歩いて行っているということの 哀れさでなくて幸せをしみじみ感ずる。そのしみじみ幸せを感ずる、それがね徳をうけていきよる印なんです。その徳を受けていきよる驗しが、ならたまりたまってどういうことになるかというと身しのぎが出来るようになってくるのである。徳を受けて身しのぎをするようになれ、と仰言る。
ですからね、どうしても参って教えを頂いて真の道を聞いて真の道を歩きよらんとね徳をうけられない、実はここで参るという事と信心するという事をはっきり、この64節には違うものであることを説いておられるように思います。毎日お参りしよるですよち、毎日お参りしよるだけじゃいかんということ(笑)。ねえ、それがやはり修行になりますからお蔭は頂きよいですね。そりゃお蔭を受けますよ、一遍参るよりかやはり二遍も三遍も参るほうがお蔭を受けるです。修行として受けてくださるです、けれどもそれがね徳を受ける修業にはなっていない、真の道を歩かせて頂きよる幸せをしみじみ感じるようなことはできない。為にまず教えを頂かなければいけんのです。それを有り難いことにはね、もうほんとに初心の者には初心の者にはいりやすーい教導を受ける所に私は有り難いと思うですね。
いやあ私は金光様に参ったばってん難しか、とても私だんできんということじゃない。本人が本当におぼえようと思ったらイロハのイの字から教えて頂くことですよ、本人が習おうと思わなかったらいけませんねやはり。もうイロハのイの字から教えて頂く。そして段々言わば難しいというか味わいのあるというか、その信心を体得させてもろうていく。 此の方は参って尋ねる所がなかった。氏子はお蔭を受けて遠路の所を参って来るが、とこう仰言る、ですから皆さんは此処遠路の所を又はしるしいところをお参りしてみえるのですから、此処ではいわば神の教えを頂くことができる。しかも此処の場合はね、もういうなら直伝ですよ、もう私が本当に申します、もう本当に私がね私が神様に頂くことをね、勿論そりゃ私がある意味あいでは訳しながらね、解りやすく又は解りにくくしよるかもしれませんね、私が表現べたですから私が表現べたですから。けども確かにあの神様から頂いた事を皆さんに伝えておるのですよ、いっちょ明日の朝の御理解にはいっちょ64節と御神訓のここば(笑)お話ししようなんて計画は全然無計画の中にお話しをさしてもらってるんですよ。
ですから皆さんがそこんところを信じられてですね、だからうんならここでお話しを頂いていることを大坪総一郎の話ではなくて、そのまま神の声として皆さんが頂かれるなら、いわゆる神の教えを直にこうして頂いておるんだと信じてです。神様から頂いたものを粗末にしちゃならん、それを大事に大事に頂いて帰って信心していかなければいけません。それを生活の上にも日常の中にそれを現していかなければならん。そこから真の道の道を歩かして頂きよる者の心安さというかね、真の道を歩かして頂きよる者の幸せを、それが難儀があれば有るほど感じることができるんです、真の道を歩いている者は。ね、そりゃ叩かれれば痛いですよ、そりゃ困った問題は困った問題なんですけども困った問題があればある程にです、本とに真の道を歩かせて頂いている者の幸せをしみじみ、今朝私が感じたようなものを皆さんも感じることが出来る。それを感じて行く日々、そういう信心生活とはそういう事、それが私は積もり積もって徳という事になり身しのぎが出来るようにならして貰うのです。
神の教えも、真の道も知らぬ人の哀れさ、何十年間お参りをしておりますけれども、どこどこ教会の信者でございます、と言うておっても、教えも聞かず真の道を歩こうと意欲もしないでですねおっては、やはり哀れさであります。ね、だからそういう哀れからですね私共が幸せを感じれれるお蔭を頂かして頂く為に、参って来ると同時に信心してと仰言るところを頂く。神の教えを頂く信心を解らしてもろうて今日からは、そこを歩かせて貰おうと、そこに身に徳を受けて行く身しのぎが出来るような信心が出来る。しかもそれがこのまま行ったらどういう幸せが頂けるだろうかという、もう実に何ともいえんその先が明るいですね幸せを感じる事が出来る。同時に、これがあの世にも持って行ける、このまま持って行けるのだ、しかもこれが子にも孫にも残せるのだとハッキリ分かってくるようになったらいよいよ信心も楽しい有り難いものになって来るのです。
参って来ると信心するという事を今日は区別してお話ししましたですね、どうぞ。